地獄の獣よ狂気の無垢を

タイトルは仰々しいけど、何となしに日々の雑感をダダ漏れ中です。

枯れる

いいとも終了がタモリの口から生放送中に発表された。
ついに、というかなんというか。
90年台くらいから「いいともの客」ってどうなんだ、という話が持ち上がったり、いいともレギュラーになることが芸能人のステータスのように言われたり、番組の最後にタモリンピックという観てる者にとってまったく思い入れの入れようがないコーナーが始まってしまったり、何だか辛くなるような仕組みしか組まれないように、番組が改悪に改悪を重ね今まで続いてきたように感じていた。

一番辛いのはテレフォンショッキングが終わったあとの、芸能人たちによるクイズやゲームの時間。これって何なんだろう、と空虚な気持ちにさせられる。テレビの最も悪い部分だけをエッセンスにしたようなプログラム…。だからテレフォンショッキングだけ見てテレビを消す(正確に言うと気に入った人選の時だけ見るのだが)。

子供の頃見ていたいいともというのは、批評的というかシニカルで変な番組だった。いびつな感じが、子供にも伝わってきて「大人の人たちが好き勝手にやっている」感があった。気の利いた悪口というとアレだけど、なんていうかウィットに富んだものだった。
とにかく番組の鮮度は20年前にはもう落ちていた。

じゃあ80年台は面白かったかというと、個人的にはそういうわけでもなく、それ以前にタモリを見るのが苦手だった。
今のタモリはすごく落ち着いて見れる。これいつくらいからそう見れるようになったのか定かではないが、多分2000年台に入ってからくらいからじゃないかしら。
昔のタモリは当たり前なんだけど若いからイキイキしていた。もっと前のめりだったし、髪の毛はビッチリ撫で付け肌ツヤもよく口調も途切れなく攻撃的だった。毒が強かったからイヤだった、というわけではなく、ただただ見てて溢れかえるリビドーが強烈だった。
そういえば今では考えられないが、抱かれたくないタレントナンバーワンがタモリだった時代があった。結構長い期間そうだったように思う。

前述のように今だったら楽しんで見れる。
それはやっぱり加齢によりタモリの体力がなくなってきたからだと思う。以前リリー・フランキーが「女の子は年上は落ち着いてていい、っていうでしょ。でもあれって落ち着いてるわけでもなんでもなくて、ただ単に年取って体力なくなっただけだから」と言っていたが、そういうことなんだと思う。

日本シリーズ優勝

 プロ野球で楽天が日本一になった。
 宮城県生まれの自分としては…「楽天に勝って欲しい!」とは必ずしも思っていなかったのである。
 なぜかというと、これまで楽天という球団にさほど注目していなかったので、特にこれといった思い入れがなかったためだ。
 
 野球に関しては、昔からライオンズが好きだったのでその流れでずっとライオンズを応援してきた時代があって、その熱も冷めだいぶ経った頃、楽天がパ・リーグに誕生したので、故郷のチームであっても、もう一度野球に熱を入れる、という思いに至らなかったのだった。
 もうその影はないが、設立当初はやはり近鉄というイメージが消えなかったし。
 
 そして楽天誕生の際にあったイザコザというか、二転三転した経緯もいまだに引っかかっている。近鉄消滅時、最初に声を上げたのはライブドアだったので、ライブドアのチームになるのか、と思っていたのだが、楽天が急に手を上げあれよあれよという間に、楽天に決まってしまったという印象がある。
 
 そして僕が楽天に肩入れできない一番決定的な理由は、仙台にプロ野球チームが来たら絶対に仙台人たちは楽天を応援するに決まっているからだ。
 宮城生まれだからそこはすごくわかることだが、プロ野球という権威がわが町に来たら絶対手放しで喜んで受け入れるジジババ層が厚い。そのかわり新興のコンテンツに関しては結構厳しく排他的。
 つまるところ保守ということ。
 
 地域にプロスポーツ文化は根付いてもらいたいと強く思っている。
 楽天は僕が応援しなくても必ず仙台では盛り上がるだろう、と考えていて実際スムーズに盛り上がっている様子なので、触らなくてもいいなと思い、勝っても負けても特に気にしていない。

浪花節には気をつけろ

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芸能人側からもあっちでは擁護コメント、こっちでは非難コメントが出てきてたみのもんた。
本当にセクハラしていたかどうかとか、息子の不祥事とかということに全く関心がないので何も言うことはないのですが、気になったのは記者会見での様子。

多分この人は、理路整然と考え喋ることをせず、常に自分が言って気持ちいいこと・言いたいことだけを考えているんだろうなあ、ということだった。
突然お涙ちょうだいの浪花節のような話をしたり、芝居がかった態度だったりと、なんというか理屈うんぬん以前に、相手にメッセージを伝えたい、これだけは説明したいわかってほしい、という気概がほとんど感じられなかった。
ノリや雰囲気で「なあ、わかるだろ?」と押し通すリア充スタイル。すべてにおいて「甘え」が全面に出ていたように思う。

程度の差こそあれ、こういう人はみのもんたに限らず、世間にはかなり存在している。
これを言いたい、これを相手に主張したい、これを口にすれば心地いい・満たされる・ルサンチマンが解消される、という快感を求めるためだけに終始する言説や説教は、この世界に腐るほど満ち満ちている。
こういう人たちの言っていることというのは、自分で言って自分でジーンと気持ちよくなるのが目的という、つまりオナニーを見せつけられているのと同じなので無視して軽蔑するのがいい。

ちなみにネトウヨのほとんどの言説は、これに当てはまることが多い。そしてこの快感はナショナリズムに通底しているものだと思う。

将来は女優に、というメンタリティ

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よくAKBの人たちが「将来の夢は女優です」「ゆくゆくはみんなから愛されるタレントになりたい」「○○のような歌手になりたいです」と言っているのを聞くたびに、そんなこと言わないで欲しいと思ってしまう。
今のアイドルという立場は単なる腰掛け、というか未来に対して名前を売っているだけなのか、と疑ってしまうからだ。
もちろんファンの人は自分が応援するアイドルの夢が叶うことを望んでいると思うが、それにしたって今やってるアイドル活動が軽くなってしまわないんだろうか。

アイドルから女優へ、という転身自体は昔からあったし特別やましいことではないけど、アイドルが徐々に活動の幅を広げていく過程というのは、もっと偶発的でセオリーみたいなものはなかった。
いつぐらいからアイドルそれ自体がプロセスになったんだろう。

例えば松田聖子中森明菜はずっと歌手というポジションのままだったし、酒井法子菅野美穂はアイドルからゆっくりゆっくりと女優というポジションを獲得していき、多分ふたりとも「将来の夢は女優です」とは言わなかったように思う。アイドルはある程度の年齢がくるまで本人がアイドルとして活動していく賞味期限に疑問を感じながらも、アイドルはアイドルのままだった。
AKBの人たちが「将来は〜」と言うのは、アイドルから○○へという過去のテンプレが数々あるからだろう。

それにしても、だ。
アイドルとして活躍しているにもかかわらず、将来の理想の姿を語る姿を見ると、アイドルをアイドルとして全うしているように思えないんだな、どうにも。

ここ最近のアイドルでは定番となった自己紹介のアレ、あの口上。
はーい、元気が一番、元気が取り柄なメンバー随一の元気印、○○でーす!っていうあの自己紹介。ちょっと前のアイドルはああいうのまったくやってなかった。あれって昔のアイドルっていうイメージをメタ的な視点でなぞらえた、いわゆるメイド文化・ローカルアイドル勃興以降のもんだと思う。アイドルじゃない人がアイドルをパロディにして生まれたものでしょ。批評的と言ってもいいと思うけど。
モーニング娘。の隆盛で(それ以前のspeedの人気も少なからず関連してると思うが)、これまでになかったアイドルってものの価値の再発見と再解釈がなされ、それをベースにAKBやnegiccoperfumeなんかがあると思う。

今現在のアイドルにとってアイドルっていうのはメタフィクション的な要素が強いんだと思われる。AKBの場合、特にそれが顕著なんではないか、と。
だって他のももクロとかperfumeとか、将来は女優へとは言わなさそうじゃないですか。
AKBは「ここではない、どこかへ」的なもんだいの中を生きていて、ももクロなどは「今、ここ」的なもんだいの中を生きている、のかもしれない。

出は、ロックとSEXとドラッグの旗手

こないだ、村上龍の「案外、買い物好き」というエッセイの書評を載せているとあるブログを見た。

ちなみにエッセイは、村上龍がミラノだったりパリだったりでシャツを買ったり、お店を見てまわったりして、ショッピングの楽しさや高揚感なんかを綴った内容となっている。
村上龍のこういったエッセイの類いはワインや料理などに関するものがあり、昔からのファンからするとお馴染みの楽しく読みやすいものだ。

で、その書評なのだけど、評している人のポイントが僕から見るとズレまくっていたのだ。
おおまかに言うとこんな具合。
『経済番組を持っていたり「半島を出よ」という政治小説を書いた村上龍が、消費や物欲を礼賛し、その中にまみれて堕落しているようにみえる。これは村上龍が日和ったのでは?』
つまり政治経済に敏感な村上龍が「おしゃれなシャツをいっぱい買っちゃったよ」と言っていることに対して違和感を抱いているらしい。


ツッコミたくなる箇所はたくさんあり、さらに仮に政治経済に敏感だったならば茶目っ気も見せてはならないのか、という笑えない冗談を平然と発信していた。
そのブロガーは多分「限りなく透明に近いブルー」も「69」も「超電導ナイトクラブ」も知らないのだろう。でも村上龍に対してそういう感想を抱いていそうな人は少なからずいそうな感じはする。

痩せないで

iPhone 5s(とiPhone 5c)が発表されてしばらく経つ。
しかし新色が出たくらいで筐体自体の変化は特になし。
カタチ自体は4からほとんど変わってない。多少背伸びしたけれど。

今あらためて3Gの筐体を触ってみると、その触り心地のよさにうっとりしてしまう。そしてここが重要なのだが、重さがあるということ。
今は軽すぎる、そして持ちにくい。ということは落としやすい。
iPhoneなどはケースありき、という考えは当然あるとは思うが、脱がしてキレイなほうがいいに決っている。
というか衣の下もセクシーであって欲しい。

こういったiPhoneやノートPCなどが「薄くなりました」「軽くなりました」と言われるたびに、ああそう、とまったく他人ごととして聞いてしまう。
別に薄くなったり軽くならなくていいのに。
今でもじゅうぶん痩せてるよと思ってしまう。ダイエットし過ぎだよ、と。

iPhoneに関して言えばもうじゅうぶん薄いし軽いと考えている。これ以上微々たる小型化・薄型化を進めても驚きはないし、革命的な違いなんてない。
今よりもっと小さくするんだったら、体内内蔵チップにするとかでないと面白くないのかもしれない。
もしくは巨大化。