地獄の獣よ狂気の無垢を

タイトルは仰々しいけど、何となしに日々の雑感をダダ漏れ中です。

アビリティは霊感

霊が見える、という人が世の中には存在している。
「私、霊感あるんですよ」
「この部屋、ヤバイ。寒気感じる」
「あ、なんかそこにー!」
本当に見えているかどうかは確かめようがないので、言ったもの勝ちの世界だ。
しかし、そもそも霊っているのかいないのか?

子供の頃の幽霊の恐さたるや尋常ではなかった。そしてまたそれと同じくらいに幽霊を欲していた。アフタヌーンショーの「あなたの知らない世界」、2時のワイドyou「心霊写真の謎を暴く」はマストプログラムだったし、教室の片隅にはケイブンシャ大百科サイズの心霊写真集をみんなで回し読みして盛り上がっていた。

しかしいつしか幽霊に対しての価値は変わっていった。相変わらず怖いんだけど、もちろん怖いんだけど、童貞の時はもはや現実の女性とセックスなんて一度もできずに死ぬんじゃないか、と考えた時は、裸の女性の霊よ降りてこい、と望んでみたりもした。(もちろん召喚できず)

話は戻って霊はいるかどうかの話だけど、なんとも微妙な線だと思うが多分いないんだろう。それに、例えいたとしても困ったことはないし、いなかったとしても残念とも思わない。日常生活の中で霊がどれだけ影響を与えているか考えると、ほとんどゼロに等しい。そりゃそうだ。

霊はいる、という人の話だと霊視というのを行って、
「あなたのおじいさんは大変あなたを可愛がっていたんですね」とか
「…あなたのお家の仏壇の引き出しの中にメガネが入っていると思うんですが、実はそれは…」と言ったりする。
何も手がかりがない状態から情報を引っ張りだし、整合性を持たせて相手を納得させる、というのはテレビでよく見かける霊能力者の姿だ。

占いでもそうだけどよく霊能者に見てもらった人が、「当たってる」とか「言い当てられた」と驚いて、助言された言葉を信用したりアドバイス通りのチョイスをする、みたいな話をよく聞く。そしてその度に違和感が湧き上がってくる。
当てるのが向こうの勤めなのだから、そりゃ当ててくるだろう。霊の力を使わなくても当てに来るんだろうと思う。
占いさえも行ったことがないが、僕だって行って見てもらったらそれなりに当てられるんだろう。
だけど当たったところでそれがどうした、と思う。
相手に当てられるのもシャクだし、その言葉通り行動するのはもっとシャクだ。

その能力、昔は『なぜ自分には見えないんだろう、見えればいいのに』と己の力のなさを悔やんだものだが、年をとるにつれそういう思いも薄れてしまった。霊が見えるということに、以前ほど魅力を感じなくなった。

霊能者と呼ばれる人の中にも、本当は見えてないんだけど、“見えてる自分”という優越感が欲しいから「見える」と言っている人もいるんではないだろうか。つい最近も作曲家で似たようなことあったし。